宮澤賢治 Miyazawa Kenji 2005 6 24
知人から頂いた資料によると、
宮澤賢治は、自費出版をしていたそうです。
その作品は、「注文の多い料理店」だった。
しかし、同書は、当時、全く批評の対象にすらならなかった。
宮澤賢治は、生前に、出版社から原稿料を得たのは、たったの一度きりだった。
これに対し、私が思うことは、
宮澤賢治は、大衆受けする「娯楽もの」を書けば、本が売れたのでしょうが、
それでは、宮澤賢治の名前は、歴史に残らなかったでしょう。
同じ資料には、こんな記事もあります。
「ゴッホは、存命中に、たった1枚の絵しか売れなかった。」
未来の歴史家は、こう書くかもしれません。
「19世紀末から20世紀は、科学技術は発達したけれど、精神性の低い時代だった。
娯楽の世紀だったと言える。」
もし、21世紀も、同じようなことになってしまったら、
実に、悲しいことです。
本当の豊かさとは true affluence 2005 3 16
豊かさには、「物質的な豊かさ」と「精神的な豊かさ」があります。
もちろん、どちらか一方を否定するものではなく、
両者とも、バランスよく存在すべきです。
しかし、現代文明は、あまりにも「物質的な豊かさ」に偏りすぎています。
特に、今の子供や若者は、豊かさには、
「物質的な豊かさ」と「精神的な豊かさ」の両面があると理解してなく、
「物質的な豊かさが、すべてだ」と思っている雰囲気すらあります。
これは、現代文明が作り出した「精神的な病」だと思います。
「物質的な豊かさ」が持つ魔力に、すっかり取り憑かれてしまっていると言えます。
共産主義体制の崩壊で、唯物主義的な考え方も崩壊したと思っていたら、
いつの間にか、こうした唯物主義的な考え方が、再び甦り、
今の日本に広がっているのです。
つまり、「物質的な豊かさが、すべてだ」という唯物主義的な考え方が、
大きくなりつつあるのです。
しかも、問題なのは、生まれてくる子供が、次から次へと、
こうした「精神的な病」に染まってしまうということです。
この悪循環は、どこかで、何とか断ち切らないと、大変なことになってしまいます。
かつて、日本は、そして日本人は、
極めて精神性の高い国、あるいは極めて精神性の高い民族として、
諸外国に紹介されていた時もあるのです。
(唯物)
ただ物質のみが、真の存在であるとして、これを重視すること(広辞苑)。